梅雨の季節になると、いつも自宅の縁側で煎茶を淹れながら、降りしきる雨の音を聴くのが私の日課になっている。都会の喧騒から少し離れたこのマンションの5階は、窓の外に雑木林が残っていて、雨の音が直接耳に届く。
今日も朝からしとしとと雨が降り続いている。仕事の合間の一休み、茶筒から茶葉を取り出し、急須に入れて80度ほどの湯を注ぐ。煎茶は湯の温度が高すぎると苦みが出すぎるから、沸かした湯を一度湯呑みに移して温度を下げるのが私のやり方だ。一分ほど蒸らしてからゆっくりと湯呑みに注ぐと、淡い緑色の水色が湯呑みの底に広がり、さわやかな茶葉の香りが鼻をくすぐる。
窓を少し開けると、湿った風が部屋に入ってきて、木々の葉に当たる雨の音がはっきりと聞こえてくる。コンクリートの屋根に落ちる雨は「パラパラ」と乾いた音だけれど、雑木の葉に落ちる音は「しとしと」と柔らかく、地面の苔に染み込む音までがかすかに伝わってくる。この音の層がなんとも心地よい。都会では車の音や工事の音が常に鳴っているから、こんなに自然の音だけに包まれる時間は本当に貴重だ。
一口煎茶をすすると、まろやかな甘みの後にほのかな苦みが口の中に広がる。この苦みが梅雨の空気とよく合う。外はどんよりと曇っていて、気分が沈みがちになるけれど、煎茶の苦みと雨の音が合わさると、不思議と心が落ち着いてくる。若い頃は梅雨のジメジメした感じが嫌いだったのに、年を取るごとにこの季節の良さがわかるようになってきた。
ふと、子供の頃に田舎の祖母の家で過ごした梅雨の日を思い出した。祖母はいつも縁側で茶を淹れながら、「梅雨の雨は五穀を育てる恵みの雨だよ」と言っていた。当時はその言葉の意味がよくわからなかったけれど、今になってみると、慌ただしく生きている私たちの心を潤してくれるのも、こういう静かな雨の日なのだと思う。何も急ぐ必要はない、ゆっくりと時間が流れるままに任せればいい——雨音はそう囁いてくれているようだ。
湯呑みの茶が半分になったころ、雨が少し強くなってきた。木々の葉が雨にゆれる様子をぼんやりと眺めていると、日ごろ抱えている仕事の悩みや人間関係の不満が、少しずつ雨に洗い流されていくような気がする。私たちはつい、早く結果を出すこと、効率よく物事を進めることを求められるけれど、こうして何もしない時間、ただ雨を聴き茶を味わう時間こそが、心を整えてくれるのだ。
雨はまだ降り続いている。湯呑みが空になったら、もう一度急須に湯を注ぐ。二煎目は少し味が薄くなるけれど、その分すっきりとした味わいがまた良い。まだしばらく、この縁側で梅雨の雨を聴きながら、ゆっくりとこの時間を楽しもう。こんな静かな一日があってもいいじゃないか。梅雨の季節の贈り物を、ただ全身で受け止めながら。
この穏やかな時間が、いつまでも続いてほしいと願う。降りやまない雨のように、心の中の静けさもいつまでも残っていてほしい。煎茶の香りと雨音に包まれながら、私はただそこにいる。何も生み出す必要も、誰かに認められる必要もない。ただ、自分の呼吸と、雨の音と、茶の味を感じている。それだけで、十分なのだ。梅雨が去って、蒸し暑い夏が来ても、きっとこの感覚は忘れない。また来年、梅雨が来たら、こうして縁側で茶を淹れて、雨を聴こう。そんな当たり前の楽しみが、いつの間にか私の一番大切なものになっていた。
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